昭和42年10月18日 朝の御理解


 先日は共々にこの開教式のおかげを頂きました。ほんとに見事な賑やかな盛大なお祭りでございました。私共がそう思うくらいでございます。ようもこれだけのことが短期間の間に準備が出来たものだと、十五日あまりしかなかったのでございますが、その十五日の間にあれだけの準備が出来たということはほんとに神様のおかげを頂かねば出来ることではない。盛大な御比礼にお互いが浴した訳でございます。
 お祭りを頂きました先生方も合楽の信心をほんとに見直されたであろうとこう思います。お参りをしごた信者方もびっくりなさったであろうと思います。その中に合楽の信心信者がこれほどに内容が育っておるとは思わなかったと、平田会長は言っております。そして、私のあの時に御挨拶を申しあげましたことを特に平田会長が覚えておったのに驚きました。あと十何名先生方が残ってから二次会風に私の部屋の方で偉い先生方が残られましてから色々お話しが出るたんびにそこんところは、ここの先生はこうおっしゃったろうが、そこんところを今日はここの親先生はああいう風に表現されとうがというて言われるんですね。やっぱりあれだけのおかげを受けられてあれだけのことを口はったことを言われるだけに、やはり人の私共のお話しでも真剣にやはり耳に止めておられて、頂くところはちゃんと頂いておられるなあと私はほとほと感心致しましたが、これは平田会長だけではございますまい。皆もある意味合いに於いてから、ほんとに合楽のひとつの御比礼というものにですね、びっくりしたであろうとこう思います。
 そこで私共がです、思わせて頂かなければならないこと。成程形はまあ云うならば寸分の隙もないほどに行き届いた、しかも賑やかな、どこの教会の先生でしょうか宮野かどっかのおじいさんの先生ですが御直会の時おしょうばんに参りましたが、私は宮野でしょう、ここの小松先生と云われるから久保山先生のことです。私はここの合楽の学校の以前奉職しまして私の教え子がここにおります。当時小松先生とは先生同志で心安う頂いとりました。というようなお話しからです。ですから年配も久保山先生と変わられぬくらいの先生です。何十年間随分あちらこちらで大きな御大祭を頂きましたけれども今日のごたる御大祭は初めてでございますと。そんなことないですよね。甘木の出社ですから、甘木からの御大祭といったらここあたりの比ではございません。しかも二日間にわたってあるぐらいでございますから、そんなことはないのですけれども、何を見てそう感じられたかは知りません。けれどもそういう風に云うておられます。ね、けれどもそういう風に私共も感じました。期日十五日間くらいにこれだけのことをよう準備が出来ただけではない、ようこれだけのものが集まった。人もやっぱりこれだけのことが出来たと集まられたとこう思いますね。万事万端の上にでございますけれども、ここんところがですね、私は内容というかね、形は見事であった。云うならば、はばかりながらちっぽけなし、もう大根が青々としこっておるとするなら、いやこの大根は素晴らしい、この大根は素晴らしい大根だ。虫もついてない。ひいたらどんなに立派な大根が入っとるだろうかというのが、云わばこの前のここの教祖大祭、並びに開教式の標語ではなかろうかと。素晴らしい、虫もついとらん。生き生きと青々と、これは合楽の底力だと例えば皆さんが思われたであろう、あれだけのことが出来たんですから。ところが実際私共が反省させて頂く時にあれだけの底力があるとも根があるとも思われません、ね。
 これからは、そこんところを本気で頂いてお互い行かなければならないとこう思うのでございます。
そういう本当の力、底力というか例えて云うならどのようなことが起こって来ても驚かんで済むと申しましょうか、ね。有り難いと思うその心がもっともっとほんとな有り難いと云うものに育てて行くことの為に、私はお互いがどういうような信心をさせて頂いたらその力ほんと意味での力を養われるか、ほんとの力を頂かなければおかげは頂けん。各々のおかげの上にも日常生活の云わばこういう様々な複雑な世相の中にあってです、日々を安心と喜びのおかげを頂いて生活をしていくということはできません。
 どのような場合であっても驚かんで済む、あわてんで済むだけの信心を頂いていく為にどのような信心をさせて頂くのが良いかということでございます。
 今日は十時から稲員の高山さんの仲人で結婚式がございました。それはもうほんとに初めてのああいう結婚式を奉仕させて頂いた訳なんですけれども、ほんとに感激でございました。感動致しました。新婦の方はここへ以前参って来ておりました。本人が、お母さんはちょいちょいまいって参ります、稲員から。ところがです、子供の時から足が悪いんです。このくらいびっこを引かれるんです。ですから、打ち掛けでも着ておられるとひとつも感じませんけれども、座るとちょっと横座りでなきゃならん。打ち掛けを脱がれるとくの字型に体が見えるくらいにお尻の方が出てるくらい。顔はもう可愛らしい顔をしておられますけれどもね。御主人になられると云うのも短大を来年が卒業という時に目を患って失明してしまった。目が見えられなくなった。マッサージをやっておられます。なかなかしっかりしたまだ二十三歳だそうですけれども、しっかりとした人でした。ここで簡単に簡単にと新婦の言い分でございました。けれども、手を抜く訳にはまいりませんから、やっぱり朝からてんやわんやいたしまして、十時のお祭りに間に会うように、新婦が遅れましたので十一時頃になりましたでしょうか。滞りなく式を終えたのでございますけれども、御神前で誓いの文を奏上しなければなりません。それに仲人さんが代読をしなければならんから、高山さん、あなたが代読をしなければならんから誓いの文を作っといて下さいと申しました。そのことを本人に伝えられたところが、どういうことを言うてよいか分からんけれども、言わねばならないことなら私は言えれる。だからあの書いたものを読んで下さい、そうすれば私が点字に直す。                        
 盲さんだけで読めれる字なんです。点字で神様へのお誓いの文は私が奏上させて頂くとこういう訳です。私がそれを聞いてから本当に有り難いことだと思いました。
 今日は点字でそれを朗読されると思うとったんです。そしたら先生、あれは全部覚えてしまいましたから紙を持たなくてもいいでしょう。そりゃあいいですよと。そんなら空で覚えてしまいましたから空でそのことを御神前でそのことを聞いて頂くとこういう訳なんです。あれだけ難しい言葉を使ってあれだけの短いことは短いけれども一寸そのやっぱり一寸覚えとるというても、ま本当に頭の悪いのもんじゃ覚えきりませんですね。
 それはもうそれこそ、淀みなくもうほんとにですね、もうほんとに感激いっぱいでそれを述べられました。ほんとに感動致しました。
 お祭りが済んでから下がってからですね。「今日のあなた方の新郎新婦のあの盃の時、玉串を上げられる時、あなた方が誓いの文を奏上される時、実に立派でしたよ。とてもね。花嫁さんもほんとにごんたさんのごと奇麗にしてございますよ。貴方の紋服姿も立派でした。」と言ったら、横に御主人が泣いておられました。そこで、新婦の方も書いたものを持って来た。あんまり感激してから誓いの文をうちの神様の前にお供えしたまま持って来んじゃったと、うちの前の神様じゃいかんけんというて、又誓いの文を作らせて頂いてから、それを読まれたのですがね。きよなんとかいうて、御主人はだから、普通は新婦は花嫁さんのことですからね、黙読を致します。心の中で読む訳なんです。けれども、私がこちらから久富先生が花嫁さんは黙読でいいですよと言われましたけれども、いや新郎に聞こえるくらいな声を出して言いなさいと、申しましたら普通の声を出してですね、それを聞いてですね、花嫁さんが震えるようにして感激しておられました。ね、きよじさんと一生添い遂げさせて頂きますというようなことが書いてあるんですよね。ほんとにああいう初な心とでも申しましょうかね。ほんとに本人だけではない。周囲の者が感動するようなです、感動が伝わってくるような在り方、それこそ昔の方達がよく言ったもんだと、花嫁花婿の時のような気持ちを忘れなかったらもうこれは夫婦生活の上においては絶対幸せだ、ね。新郎新婦の花嫁花婿の時のこの感激をもし持ち続けられるとするならば、これは夫婦生活ということの上においては幸せだ、ね。吹く風も降る雨もまるきり自分達夫婦の為に吹いたり降ったりしておるように感じるだろう。
 ところが人間の凡夫の悲しさですね。三年たち五年たちして参りますと家内に不足が出てくる。主人にもやはり不足を思うようになってくる。このお多福がと言うことになってくるんです。何を言うかこのひょっとこがということになってくる。ね、そういう時私はほんとに主人がひょっとこに見えてくる時は我はお多福の自覚に立たせてもらい、家内がお多福見える時、我ひょっとこの自覚に立たせて頂け。そういう自覚に立たせて頂く時、その心というものがそう思えといって思えるものではない。家内ではない、主人ではないとじっとこう自分の心の中にほんとに感じさせて頂くおかげを頂く為にです、私は日々にさらな信心がなされていかねばならないと思います。ね、いわゆる日に日にさらというのは今日の新郎新婦のあの感激いっぱいの周囲にも感動を与えねばおかんというような、ああいう初な心のことがそげな心が日々に持てるかというけれども、信心とはそれが持てることなんだと思うんです。信心とはそれが頂けると思うのですね。お腹が大きいと何を食べても美味しくない、けれども、これが平常普通に運動をして普通の人ならば三度三度のご飯がおいしゅう頂けれる。どうも美味しくない時に一回例えば抜きますと、その次のご飯は大変美味しいようにしかも同じ米のご飯です。それでもやはり美味しいようにね。私共の心が日に日にさらなもの、新しいもの、求めてやまぬ云わば道を求める求道心、その求道心が私共の心の中にあるならです、どういうようなものの中からでも信心を頂こうとするのです。 難儀なら難儀という問題を難儀と見ずに難儀を通して信心を頂こうとする意欲が生まれてくる。そして、その難儀も又有り難いのだ。自分の為にこの雨もこの風もあるのだという頂き方が出来るということは自分の心がさらな心でなければ出来ることではございません。そのさらな心は信心を抜きにして出来ることではございません。信心しとるから誰でも受けられるかというとそうではありません。
 いよいよ道を求めてやまないという求道心があって、初めてそれが頂けるのです。道を求めさせて貰い、道を分からせて貰う為にはほんとに修行のひとつさせて頂こうというような私は願いからしか私は生まれてこないと思います。これはさらな心というものは素晴らしい働きをするのです。
 御大祭、そして毎晩毎晩徹夜の状態のような毎日でございましたが、ね。もう大祭が済みましたその夜はいよいよ疲労こんぱくの極点でございました。私は、皆もそうでした。ほんとに疲れ切っておりました。今夜はひとつ早く休ませて頂こうと思いましたけれどもが、やはり十二時ちょっと過ぎました。御大祭の晩も、ところが明くる朝は四時頃また目が覚めました。おかげを頂いて洗顔させて頂きますと、いつもよりすがすがしい。御結界に着かせて貰い御神前に出らせて頂いたらもう自分の体内にある血が全部新しく代わっていくようなものを感じます。もうそれこそ、疲れもなんもあったもんじゃない。
 前の晩、明日は大祭の晩のお言葉ですけれども、明日は小倉にお礼参拝をさせてもらわねばならない、それで親先生はあんなに疲れておられるから、若先生が代参をされるように、それに秋永先生と高橋さんが同道して下さるということになっておった。ところが明くる日は今も申しますようにそれこそ、もうほんとに昨日の疲れは何処へやらというような感じなんです。
 それはやはり態度にも出ておれば五体の軽さにも出ておる。顔色にも出ておる。初めて今度ここにお参りさせて頂いたら桂先生が大坪先生、えらい顔色がいいですね、と云われる。健康のおかげ頂いていきよんなさる証拠だという訳なんですね。というような働きをする、さらな心とは、ね。もう明日はもう神様は大祭で十五日間も疲れ、疲労こんぱくしておるから大祭の済んだ明くる日くらいは七時か八時頃頃でも起きてご祈念でもさせて頂こうというような心であったら絶対そういうものは頂けなかったと思うですね。これは誰が何というても例えば、悪いなら這うてでもやはり朝の五時の御祈念だけは勤めたい。いや勤めさせて貰わなければならない。いやそれをお許し頂かなければならんという願い、いわゆる道を求める態度その修行なんです。そういう修行の心が私の心にそういうさらな心が生まれて来、そのさらな心が十五日間の疲れが一辺に飛んでしまうようなおかげになってくるのでございます。そういう私共がさらな心を求めての信心、三代金光様が信心は日に日にさらでございますとおっしゃられた。昨日はさらであったけれども今日はさらでなくてよいということはないのでございます。そこでもう、いつも絶えず求めておかなければ求めて止まないものがなければ、いつも運動しておらなければお腹が空かんのでございます。ね、どんな百味の飲食を前に出されましてもそれを美味しいともいや食欲すら感じない。どういう例えば素晴らしい私の表現がまずいから、まずいから、はあやっぱりここの先生は素人は素人じゃなと思うて聞かれた先生方も信者さん方もたくさんあっただろう、けれども平田さんあたりの場合なんかは、いつもいつも求めて止まないものを心の中に持っておる。だから、私も言おうとしておることまで、しかもその表現は下手だけれども、それを自分の信心で受け止めておられる。そこに現在の平田さんの信心があり、平田さんのおかげがあると私は思います。ね、信者さんに先生といっちゃならんというて大変問題になった。ところがこの頃は先生といっちゃならんなら大平田というております、平田さんをですね、大平田、大の字がつくようになったら素晴らしい。親先生の上には大先生、大先生そういうしかもですね。それこそ求めて求めて止まない求道の心が私共のようにつまらない話でもぴしゃーっと美味しく頂いておられる訳なんです、ね。問題はそれが美味しく有り難く、そうだそうだと合点して頂けれるということはです、これがお腹が空いておらなければならない求めておらなければならない、ね。お腹が空いておる時は何か食べたい食べたいとこう思う様にです、いつも自分の心というものがそういう求道の心というものがなされていかなければならん。それには私共が本気でひとつ御教えならひとつの御教えに取り組ませて頂いて、それに取り組んでの日常生活いわゆる行がなされていかなければならない。 教えを頂いての信心生活が本気ででけておかなければならない。体を動かしゃお腹が空きますように教えを一生懸命疑視致しますから、もう頂いたものは血肉になってしまっておる。もうお腹がカラである。次のものを求める、朝の御祈念が待ち遠しい。
 さあ、けさの御理解はどういう御理解じゃろうかというようなものがなからなければならんのだけれども、朝の御祈念にお参りしてきておりながら、修行してきておりながら、さあ御理解が始まるとなると居眠りをする。これはもう、お腹がいっぱいである証拠なんだ。いかに昨日貴方が教えに取り組んで行じていなかったか、運動していなかったかということが分かる。今日はその御理解を頂いてから、北野の秋山さんが参って見えてから、先生今日は頭が上げられません。なしやというたら先生の顔がまともに見られない。最近の私は荒れておる。最近の心が荒んでおる。主人だけがお参りをして自分がお参りが出来ない。いわゆる行に取り組んでいないということ。この人は非常に教えを取り組んで日常生活の中から様々な体験をいつも頂いてそれが有り難いというのが秋山さんの信心の信条です。ところがです、本当に自分は御理解を頂きながら自分は眠りよる。御理解が有り難い、いつも美味しいとも思わない、これではあれもおかげを受けなければならん、これもおかげを受けなければならないことが山積しておるのに、そのことを自分の努力でおかげにしようとしてもです、根本的なところに今日は私が修行の方を怠っておることを気付かせて頂いて先生の顔をまともに見られんというて下を向いとんなさいます。だからね、秋山さんそういう時まではまだ大丈夫よと私は申しました。
 修行は出来とらんでも私にしらごと言うことが平気になったらもうおしまいなんです。今日も或る方に申しました。もうぬけぬけと私に嘘を言う。もう分かっている。こっちは神様から頂いとる。それをぬけぬけと嘘を言う。もう信心が枯れておる。ほんとに最近はご無礼しとるからほんとに親先生の顔が見られないと秋山さん。それがある間は大丈夫よと私は申しました。ところがご無礼しておってもどうしておっても平気な。親先生の顔が見られる、嘘でも言えるようになった時が怖い時、だから、さあここから本気で信心やり直しましょうというて話したことでございました。
 そういうほんとに日々さらな心、自分の頂いておる御用、とにかくいい加減にする、ごまかしの生活をする。それでさらなものが頂けようとも思われない。頂くものが有り難く美味しくもない筈だということなのでございます。
 私は、これから合楽の皆さんがあのように素晴らしい、云わば大根でいうなら葉も青々と虫もつかずにようもようも十七年間を掛かったであろうけれども、ようもようもこれだけ育ったということをほんとに知らなかった。
 こういう育ち方というものは並大抵なことではない。これはやはりここにはある方が申しております。久しぶりで合楽の御大祭を拝ませて頂いて合楽の生きた神様のお祭りしてあるお広前におかげ頂いたとも言うております。ね、そういう例えば生きた働きというものがです、ここにあっておるのでございますから、そういう生きた神様を私共が頂く、その生きた心というものがさらな心なのです。もう塩物になっておったり乾物になっておったりする魚では魚の味というものが、生とは新鮮なものは勿論ありませんね。もう塩物になっとったらね。もう干物になっておったら信心は信心であっても魚は魚であっても違うのです。ね、云わば私、生き生きとした信心というのはお刺身を頂くようなものだとこう思うんです。ですから頂きようが悪いとケガもするという事なんです。けがもすると言うことはいわば生き生きしたものだから当りもするという事なんです。ね、塩物食べちから腹壊しとということは聞いたことがないでしょうが、塩物食べてから下したという人は聞いたことがない。ところがそこに生き生きとしたぴちぴちとしたものが頂きようが悪いとすぐに中毒を起こしたましたり、悪い。けれどもその口の中に入れて味が違う。
みずみずしい、新鮮だ。そういう信心を私は値打ちのある信心だとこう思う。
そういう値打ちのある信心を銘々が一人ひとりが身に付けていくということが合楽の力である。皆さんの力である。それがここの内容である。葉も立派であるけれども実も立派である。味も良かったと言うことである。そこんところを私共の信心の課題としていかなければいけない。いわゆる求めていく焦点にしていかなければならない。ためには私どもがどうあったらよいか、日に日にさらな心を求めての信心。自分の心が疲れ切っておる。さらなものがない。きつい眠いだるい、こうすることが本当と分かっておっても、ね。
そうする意欲がない。そして堕落の方へ自分が傾いておるとするならばです、もう由々しきこと、もう信心はそこに留まってしまった感じ。求めて求めてやまない心、いわゆる求道心。私ほんとにおかげを求める前に道を求めるという信心の態度がでけてこなければ、本当の信者の生き生きとした姿は見られないと思う。
皆さんがみられて、合楽は素晴らしい。とてもああいう教会はこの頃先生方の二次会の時でした。田中先生がほんとに合楽は久留米の今度は久留米のお道の教会が十幾つある。教会のその久留米地区の力だと言うておられた。そしたら平田さんがですね、向き直ってから言われるんです。田中先生、久留米の力とはなんか、久留米の力ではなか。それはもう、お道の力だと言うてから、ああ失言失言と言うてそのいうておられましたが、ほんとに果たして久留米の力に私共がなれ得ておるか、果たして道の力になれ得ておるか、自分達のことだけでキュウキュウしておるのが実際は合楽の姿ではないか。言われてみれば久留米の力でもなからなければ道の力とまでもいっていない。それは内容がないからだということが、言えるのではないかと思うのです。ほんとにその地場の力にもなりほんとに道の力ともならせて頂く信心、それには一人一人がそういう力を、実力を養わなければなりません。実力を養うということは、ただ拝むとか参るとかいうだけのことではありません。どこまでもさらな心で、いわゆる御教えの一言一言がです、血に肉になっていくだけの私はおかげを頂かせてもらい、そして次の御用を頂くことが待ち遠しいくらいにお腹が空いておるような状態、そういう状態が私は求道させて貰う者の心掛けとして頂いていかなければならない。そこんところを確かめ確かめ信心を進めていかなければならないと思うのでございます。
 どうぞ、ひとつこれからの信心。だからですね。先生方も全部がこれはここだけのことじゃないですよ。教会がですね、もうああいう大祭が出来るとですね、必ずそれを境に比礼が落ちるというのが定評であり相場なんです。お広前なんか完備してですね、もうどこもするところがなくなったというのが現在の合楽がそれなんです。それが頂点でそこから下り坂というのがこれが普通なんです。だから、他の先生方が皆口を揃えてこれからが大事、これからが大事、これからの信心を大事にしていかねばという皆口を揃えて言うて下さるのですけれども、私は、私はここに焦点を置いて私が進んでいくというどこまで伸びるやら限りなくおかげ頂いていくやら私は分からないと思う。そこんところのおかげ頂いていくのは私共一人一人が実力を頂いていくという信心、それには私共一人一人がさらな心で道を求めて止まない。そうした修行の信心態度と言うものがです、出来て参りましたならばです、いよいよ内容も形も整うた本当に道の力にもなる様な働きが出来るようなおかげにもなってくると私は確信致します。だから皆さんもやはり願いをそこに持たなければいけんのです。私が持っとるけん、皆さんも持つじゃろうとこう私が思うとるから大丈夫と思うのですけれども、あれがでけたら、やれやれではいけんのです。そこを基点として新たな信心、それは今迄は云わば十七年間、云うなら形の上のはばかりながらの信心であったけれども、これはもうしっぽけなしの信心では駄目だ。はばかりながらのしっぽけなしとは自分自身を覗いて見れば分かるのである。どんな時でも驚きよらんか、驚きよるね。今あなたの心に有り難いものがあるか、ない。そんならやはり内容がないのですから、そこんところを頂かせて頂く信心。形はまあここにこれだけに於いて、そしてその内容であるその根であるところ、この次の御大祭、その次の御大祭にはもうよその先生方はもうあんなにたくさんは見えられません。勿論各信徒会からもあれだけ大勢の人は参って下さいません。してみると合楽だけで立っていかなければならないことになる。その合楽だけで次の御大祭にはやっぱりここのお広前が割れるばかりのものにならなければならないということなんですよね。  どうぞ。